大岡信「優雅の内なる世界・・・ヴァトーについて」 [絵画]
フォーレの「マンドリン」の詩はヴェルレーヌの詩によりますが、アーン、ドビュッシーも同じ詩に作曲しています。(アーンは「はなやかな宴」という題。)
ヴェルレーヌは、(以前も述べましたが)「シテール島への巡礼」で有名なヴァトーの絵に着想を得て作詩しています。
今、私はヴァトー、ヴェルレーヌ、フォーレ&ドビュッシー・・・の関係性が気になっています。
Watteau"La game d'amour(愛の調べ)"
昨日は図書館からこの本を借りてきました。
解説の中で詩人の大岡信さんが、興味深いことに触れていらっしゃいます。
(以下、引用)
しかし、そのようなひたすらなる自己の夢想への没頭が、本人さえ自覚しないままに、芸術の新しい時代をきりひらき、はるか世紀をへだてた後代のすぐれた芸術家たちのうちに、思いがけないような形で新たな反響を見出したということは、芸術というものにひそむふしぎな隔世遺伝的性質さえ思わせて興味深い。
(Cecilia注:ヴァトーが、優雅な衣装に身をくるんだ女達が好色的な欲望を持つ男達を誘惑的な物腰によって支配している世界、彼らの語らいをいかにもみやびなものにしている自然という舞台装置・・・・・このようなモチーフを画面に実現する時にだけ、「生の最も高揚した充実感」を味わっていた・・・・・ということを大岡さんが前の部分で述べていらっしゃいます。)
※この文の中で日本人によってたぶん最初に書かれたヴァトー論(『みやびなる宴』・・・一つの招待)について紹介されています。←林達夫さんによる論文
フランス精神は固より種々相を有してゐるが、その特色ある一面が『優雅』la grâceにありその『優雅』がワトーや、ヴェルレイヌや、ドビュッシーの芸術に最も代表的な、最も完全な表現を見出してゐることは争はれない。この意味で、我々はこの三人の芸術家をあの神話のゼウスとオケアノスの娘との間に生まれた三人の麗しい姉妹に擬えて、Les Trois Grâces Françaisesと呼んでも差し支えないであらう。我々の『みやびなる宴』は、恰もこの三人のグラースたちが互に手を取り合つて行へる一つの円舞(ロンド)である。フランス的優雅の如何なるものかを感得するには、人は何よりも先づこの三人の芸術に赴くのが捷径であり、或はそれへ赴くだけで既に十分であるとも云へる。
(林達夫)
大岡さんは
ヴァトーが孤独な病者なるがゆえに紡ぎ出し得たみやびなる宴の夢、牧歌的なヴィジョン、「詩や音楽における抒情的なそして象徴的な風景に極めて近い性質」の風景、夢と不思議の調和、常に一つの「諧調(アルモニー)」に包まれた、「音楽そのもの」と言ってもいい微妙な融合の世界・・・そこに林氏は、真の芸術家のみが意図せずして実現する「革新」の秘密をみているのである。
・・・と述べ、最後に
ヴァトーという画家は、風景画の中に、遠く遥かなものへの憧れをこのような形で描きこみ、語り続けた点で、ロマン派の一世紀早い予告者であり、陽光のきらめきや空気の敏感な揺らぎまでも、みごとに雰囲気としてとらえ得た点で、印象派の一世紀半早い先駆者だったと言えるのである。
・・・と結論付けていらっしゃいます。
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